お久しぶりです、黒井です。
昨日、私は38.2度の熱を出しました。そんなこんなで今日も学校を休んでしまったのですが……
休んでいる途中、私は梁塵秘抄をぺらぺらとめくっておりました。
梁塵秘抄とは、言わずと知れた平安時代末期の歌謡集です。撰者はかの後白河法皇。
当時の雰囲気なのか撰者の趣味なのか、宗教に題を取った歌が目立ちます。
これなどは有名ですね。
ほとけは常にいませども
うつつならぬぞあはれなる
人のおとせぬあかつきに
ほのかに夢にみえたまふ
この歌謡集は名歌ぞろいなのですが、その中でも私はこの歌が気になりました。
釈迦の月は隠れにき
慈氏の朝日は まだ遥か
そのほど長夜の暗きをば
法華経のみこそ照らいたまへ
私は、法華経信者ではありません。しかし、この歌に描かれている仏教の壮大な世界観、そして人々に寄り添う法華経のあり方には非常に心を打たれました。
暗く冷たい夜の沼、浮き沈みする魂を、照らす一輪、蓮の花。末世の闇を切り裂いて、白く輝く、蓮の花。
そのイメージは、キリスト教会に通っていた頃僕が抱いていたキリストのイメージとぴったり重なりました。
アダムはすでに堕落して、救済の日はまだ遥か、サタン飛び交う地の上を、イエスのみこそ照らいたまへ
といったパロディも簡単に作れます。
ちなみに、「慈氏」とは弥勒菩薩を指します。「慈氏の朝日」とは、弥勒がこの世界に現れて魂を救済することを指すのですね。
そういった弥勒下生信仰は、たびたび反体制派によって利用されてきました。最も有名なのは、紅巾の乱の原因にもなった白蓮教でしょう。彼らは、弥勒信仰の元に団結し、モンゴル人の支配を除けようと蜂起しました。明成立の後も白蓮教徒は秘密裏の活動を続け、その歴史は近代にまで及びました。その革命的な性質ゆえ、彼らはたびたび邪教として弾圧を受けました。
日本の弥勒信仰が現代にまで続いているのは、「慈氏の朝日」を「まだ遥か」なものと設定したからかも知れません。
昔に戻ることはできません。歴史を早めることも難しいでしょう。長く暗い人生。イエスでも法華経でも構いません、皆様を照らす光がありますように。